僕たちは「退屈な日々にさようなら」できなかった|『退屈な日々にさようならを』感想

今泉力哉監督『退屈な日々にさようならを』。つまらなくて、退屈で、だけど焦りだけはある、そんな日々をおくっている今の僕にとって、必要な映画だと思った。なので、感想を書きます。

生きること、死ぬこと、愛すること

退屈な日々にさようならを。この印象的なタイトルは、主題歌を歌うカネコアヤノの楽曲から付けたのだという。曲名はそのまま「退屈な日々にさようならを」。この曲で歌われる"退屈な日々"とは、生きている我々の生活のことで、そんな日々に“さようならを”言うのだから死を意味している。

“生”と“死”、そして、それらと等価なものとして“愛”を描く。それこそが、本作を貫くテーマである。死を受け入れることで愛を描き、愛を受け入れることで生を描く。複雑な群像劇が展開される本作だが、描かれているのはそういうことなのだろう。

愛しているから、死を受け入れる

愛しているから、死を受け入れることを選んだ人たちがいる。

映画監督の山下義人はある事件がきっかけで生きる意味を失い、死を選ぶことにした。彼の死を看取ったのは、恋人の原田青葉。青葉は、義人が水を溜めた浴槽に、切った手首を浸し、自殺する様子を見守った。

「やっぱ変だよ。見られながら死ぬなんて」と言う義人に、「死ぬのが変なんだよ」と優しく返す青葉。

死の直前、いつものように朝食をするふたり。青葉は食パンの耳が苦手で、ちぎって義人の皿の上に載せる。義人も自分の食パンの白い部分だけ、青葉の皿に載せる。まるで、これからもそうして暮らしていくかのような所作。だけど、義人は死んだ。青葉は愛していたから、彼の死を受け入れた。


今泉美希は好きだった清田を追って、田舎から東京に出てきて、清田と一緒に暮らしていた。

だが、それは恋人同士の同棲というわけではなかった。そこには美女が何人も一緒に暮らしていて、美希もそのひとりだった。清田はその家のことを“清田ハウス”と呼んでいる。彼女たちはまるで軟禁されているようでもあったし、自らその境遇を受け入れて暮らしているようでもあった。美希と清田の間に、何があったのかはわからない。しかし、美希が清田を好きなことは確かのようだった。そして、美希は清田を殺した。愛しているから殺したのだ、と彼女は言った。

愛と死を受け入れて生きていく

愛と死を受け入れて、生きていくことを選んだ人たちがいる。

青葉は義人の実家を訪れた。義人には双子の兄・今泉太郎がいた。太郎は経営していた造園会社を畳んだあと、彼を世話焼き女房のように支え続けた千代と結婚した。そこに情熱的な恋愛はなかったのかもしれない。だけど、幸せで平凡な毎日を生きている。太郎は、愛を受け入れて生きている。

そんな平凡な彼らのもとに青葉は訪れ、義人の死を告げる。生と死と愛が交錯する。当然、家族は反発する。彼らに対して青葉は「でも生きてたでしょ?死んでるって知るまでは生きてたでしょ?」と残酷にも思える言葉を投げかけ、そういう家族のことを「羨ましい」と言った。

そして、その場に集った人々のそれぞれの愛は、最終的には生きることに帰結する。彼らは親しい人の死を受け入れて、生きていくことを選んだ。


売れない映画監督の梶原は、一見主人公のようで、物語に部分的に関わりながらも、最初から最後まで部外者だったが、彼もまた愛を受け入れて生きていくことを選んだ。

梶原は、映画監督としては鳴かず飛ばずだが、映画以外の仕事はしないと言い張っており、また、恋人との関係も冷え切っていた。あるとき、梶原は清田と偶然出会い、アーティストのMVの仕事を紹介してもらったことがきっかけで、事件に巻き込まれてしまう。

最終的に、恋人のもとに戻った梶原は、彼女とともに生きていくことを選んだ。その上、MVの仕事もどうやらうまくいきそう、という具合で幕を閉じる。梶原は、愛を受け入れ、社会の中で生きていくことを選んだ。

退屈な日々を生きていく

主題歌にもなっている「退屈な日々にさようならを」で、カネコアヤノは「死ぬことは仕方ない」と歌う。生きることは同じことの繰り返しで退屈だし、死を選ぶこともできる。それは仕方のないことで。それどころか、死は魅力的で、殉教者のような義人の死に方にはどうしても惹きつけられてしまう。

だけど結局、僕は義人のように死ぬ勇気なんてないし、太郎や梶原のように生きていくしかないと思う。

そうやって僕は、退屈な日々を生きていくのだろう。